【中国経済レポ−ト】
「金融恐怖バランス」―人民元切上げをめぐる米中の駆け引き
沈 才彬
『エコノミスト』誌別冊2006年8月14日号(7月31日発売)
クリントン政権時代のアメリカ財務長官サマーズ氏は米中経済関係を新しい時代の「金融恐怖バランス」(balance of financial terror)と呼んでいる(米「ウォル・ストリート・ジャナル」紙06年3月28日記事)。この表現は「核恐怖バランス」の米ソ冷戦を思い出し、必ずしも適切とは思わない。しかし、米中関係の現状を見る限り、この表現はある程度合理性があることも否定できない。
本稿は人民元の切り上げをめぐる米中間の駆け引きを検証し、「金融恐怖バランス」の行方を探る。
●「強盗VS泥棒交渉」と呼ばれる米中96年交渉
「金融恐怖バランス」理論の背景には、次のような定説が存在している。「米中間の貿易または金融戦争は双方の経済破綻を招きかねないと両国が認識しているため、貿易面で緊張が高まっても戦争は始まらない」(前出)。この定説によれば、中国側は為替市場で毎月数十億米ドルを買い続けることをやめられない。やめれば、米ドルの崩壊を招くと同時に、中国経済奇跡の基礎条件―米消費者の購買力と世界経済の安定にも悪影響を及ぼしかねない。同じ理由で、アメリカも人民元の過小評価のため中国を厳しく制裁することが考えられない。制裁すれば、インフレ、金利上昇と景気後退を招きかねないからである。
要するに、米中経済は互いに深くビルトインされ、ステークホルダ関係にあるため、両国は貿易戦争や金融戦争をすることができない。正に「恐怖のバランス」である。1996年の米中知的財産権交渉、97年香港ドル防衛をめぐる米中間のやり取り、05年人民元切り上げをめぐる米中間の駆け引きなど、いずれもこの「金融恐怖バランス」の合理性を裏付けている。
まず96年米中知的財産権交渉の事例を見よう。同年5月15日、当時のクリントン政権は海賊版CDによる知的所有権侵害を理由に、総額30億ドルにのぼる対中制裁対象リスト(100%関税の賦課)を発表した。これを受け、中国政府は即日、米国の制裁を上回る報復措置をとり、米製品に100%の特別関税を課し、米企業の対中投資を規制する逆制裁リストを発表した。米中貿易戦争は一触即発という緊迫した状態となっていた。
実際、相互制裁リスト発表まで、米中間の激しい交渉が続いた。特に北京で開かれた1回目の交渉は、「強盗VS泥棒交渉」と呼ばれ、歴史に残る名交渉であった。交渉の主役は当時のバーシェフスキ・米通商代表と呉儀・中国貿易大臣という2人の「鉄の女」であった。関係者の話によれば、交渉の冒頭挨拶に立ったバーシェフスキ氏は冗談気味で「本日、われわれは泥棒と交渉します」と発言すると、呉儀氏は怒って「いや、われわれは本日、強盗と交渉します」と応酬し、「製紙、印刷、羅針盤、火薬など世界史上の四大発明はいずれも中国によるものであり、アメリカをはじめ西側諸国は今もわれわれの発明を使い続けている。にもかかわらずライセンス料金を一銭も支払ってくれなかった。強盗行為じゃないか」とアメリカを強く批判した。結局、交渉は難航し、いったん決裂した結果、相互制裁リスト発表という深刻な状態に至った。
ところが、制裁発動予定の6月17日までのぎりぎりの段階で、米中双方は互いに妥協し、合意の成立によって制裁発動を回避した。相互妥協には様々な理由があるが、中国側が切り出した市場カ−ドは効果があったことが否定できない。制裁が発動すれば、ボ−イングのような大手企業は中国市場から締め出される恐れがあるため、必死になって制裁の発動に反対した経緯があった。
米中貿易は日米貿易と違い、ブ−メラン形態が主な特徴となっている。つまり、米国企業は中国に進出し、中国で生産した製品を米国に輸出するという構図である。ブ−メラン貿易の主な担い手は、モトロ−ラ、コダック、ボ−イングのような大手企業である。これらの大手企業は中国市場から莫大な利益を得ており、米国側の巨額の対中貿易赤字の多くも彼らの対米輸出によるものと見られる。米大手企業の制裁反対は米中貿易戦争回避の決め手となった。
●中国の対米輸出で潤う米大手企業
05年アメリカの対中貿易赤字は過去最大の2015億ドルを記録し、米赤字全体の28%を占める。対中直接投資も31億ドルにのぼる。一方、中国に流れ込む資金の相当な部分は、中国による米国債購入(年間数百億ドル規模)と米企業による利益還流(年間数十億ドル規模)という形でアメリカに還流している(図1を参考)。仮に米国は一方的に中国を制裁すれば、或いは中国は米国債を大量売却すれば、この仕組みは崩壊し、米中経済はともにパニック状態になりかねない。これは決して双方が望むことではない。米中間の資金流れの仕組みは正に「金融恐怖バランス」を支えるものと思われる。
今年5月末時点で、中国の外貨準備高は昨年末より1061億ドル増の9250億ドルになり、日本の8648億ドル(6月末時点)を上回り世界最大の外貨保有国となった(図2を参照)。外貨準備高の多くは米国債を運用しており、その規模は3000億ドルを超えると見られる。膨大な外貨準備高と米国債を持つことは、米国と交渉する時には大きなカ−ドにもなれる。
実際、中国は米国債をカ−ドに使って米当局と交渉した前例がある。香港返還を控えた1997年5月、「金融サメ」と言われる米ヘッジファンドの雄・ジョ−ジ・ソロスは何度も香港ドル売り投機の動きを見せた。それをキャッチした香港の親中派有力財界人が朱鎔基筆頭副首相(当時)に「ソロス傘下のファンドが香港ドル売りを仕掛けている」との情報を伝えた。事態を深刻に受け止めた朱氏は、さっそく「香港ドルの防衛には米国債を売らざるを得ない」とのメッセ−ジを当時のル−ビン米財務長官に送った。
朱鎔基氏のメッセ−ジは米国の急所を突いた格好となった。当時、中国と香港は合計2000億ドルの外貨準備を持ち、そのうちのかなりの部分を米国債で運用していた。売りに転じると米長期金利は急騰し、株式市場も経済も混乱する恐れがある。財政赤字の穴埋めを外国に依存している泣き所を突き、朱鎔基は米政府に対し、香港ドル売りを断念するようソロス氏に働きかけてくれと迫った、という筋書きだった。
米政府は実際に朱鎔基のメッセ−ジにどう対応したかがわからないが、その後、ソロスは香港ドル売り投機の動きを見せなかったのは確かである。結果的に見れば、朱鎔基のメッセ−ジは効果があったのである。その背景には、経済的パニックを回避したいという米中双方の思惑が一致したことがある。
●米中、見かけは「対立」、水面下では「連携」
米中関係のキーワードは「対立」と「連携」である。つまり、一見して対立するように見えるが、実際、水面下では緊密に連携している。これは米中関係の特徴とも言える。
05年人民元切り上げをめぐる米中間の駆け引きは正にこの特徴を顕わにしたものである。去年7月21日人民元切り上げ電撃発表前後、米中間の阿うんの呼吸が目立っていた。これまで中国に人民元切り上げを厳しく迫ってきたブッシュ政権は中国の電撃発表の直前、急に強硬姿勢を修正した。発表2週間前の7月6日にイギリスのグレンイ-グルズで開かれたサミットでブッシュ大統領は元切り上げの言及さえしなかった。中国を「為替操作国」と認定することも辞さない構えを見せていたスノ−財務長官(当時)は7月14日、米CNBCテレビに出演し、「人民元改革は国家主権にかかわる。米国ではなく中国が判断すべき問題だ」と、中国を援護するような発言をした。中国の発表直後、一番早く反応し人民元改革を肯定的に評価したのもブッシュ政権であった。スノ−長官は「国際金融市場の安定に大きく貢献する」と述べ、マクレラン大統領報道官も「中国がより柔軟な為替制度を採用したことに勇気付けられた」と語った。
ブッシュ政権の一連の言動から見れば、人民元切り上げの舞台裏に事実上の米中合意があったことが否定できない。実際、中国当局によれば、電撃発表の一時間前、中国は「適当な方式」で米国側に通知したという。中国政府の事前通知を受けたのは、ブッシュ政権が唯一の外国政府であった。
さらに、今年5月10日に発表された米財務省外国為替報告書は、昨年に続き中国の「為替操作国」認定を再び見送った。これに先立って、米上院のリンゼー・グラムとチャールズ・シューマー両議員も人民元レートに関連する中国制裁議案の採決を延期することを決めたと発表した。同議案は両議員が昨年提出したものであり、人民元を大幅に切り上げない場合、米国が中国からの輸入製品に最高で27.5%の報復関税を課すという内容である。また、米証券大手ゴールドマン・サックス会長として中国を約70回訪れ、今年7月10日に米財務長官に就任したヘンリー・ポールソン氏は、6月28日行われた上院の公聴会で中国の人民元改革と金融市場開放の加速を促したものの、人民元レートに関連する中国制裁方案に対しては否定的な見解を示した。
一連の米中双方の言動から見れば、この「金融恐怖バランス」は当面続くという見方は妥当と思われる。
●「金融恐怖バランス」の行方
しかし、米中「金融恐怖バランス」は当面続くとしても長く続くことが考えられず、いずれ崩れる時が訪れるだろう。
米国の貿易統計によれば、今年1-4月の対中赤字は前年同期比13.4%増の643億ドルとなり、通年は2200億ドルを突破する見通しである。今秋に米国に中間選挙があり、議会も政府も対中貿易赤字の急増による米産業界の強まる不満を無視できず、人民元切り上げ圧力を一層強めることは必至であろう。
一方、中国の毎月数十億ドル買いによる元安維持も限界に来ている。中国の外貨準備高は年内に1兆ドル突破が確実の状態となり、約7割が米ドル資産と見られる。仮に米ドルが暴落した場合、中国は巨額の被害が避けられない。さらに、米ドル買いによる元安維持は、結果的にマネーサプライと銀行貸し出しの急増、不動産バブルと設備投資の加熱および過剰生産をもたらし、輸出依存からの脱却を難しくする。周知のように、輸出依存の体質は極めて脆弱なものであり、世界経済が変調した場合、中国は大きな打撃を受けざるを得ない。バブル崩壊のリスクも否定できない。
従って、中国政府は輸出依存の体質から脱却し、内需依存への構造転換を促すためにも、人民元の切り上げを容認せざるを得ない。英「フィナンシャル・タイムズ」紙は、周小川・中国人民銀行総裁が元切り上げについて、次のように発言したと伝えている。
「元切り上げはアメリカのためではなく、われわれ自分自身のためである……強い通貨はわれわれの生産者をして技術革新をさせ、生産性を向上することができる」(同紙5月15日付)。
今後、中国は元高方向に向かうことは間違いない。実際、人民元対ドルレートは去年7月21日に2%切り上げられた後、今年7月7日までにさらに1ドル=8.11元から1ドル=7.98元へと1.6%切り上げられ、切り上げ幅は累計で3.6%に達した。特に今年4月に入ってから、元変動幅拡大の傾向が顕著になっており、これからはさらに拡大する可能性が高い。
ただし、完全な変動相場制への早期移行は考えにくい。資本市場の開放、通貨兌換性の実現、不良債権の処理という3つの前提条件をまだクリアしてないからである。中国はあくまでも「自主的、コントロ−ル可能、漸進的」(周・中銀総裁)という三原則の下で経済成長に大きな影響を与えずに人民元改革を慎重に行い、完全な変動相場制への移行は早くても北京五輪開催前後になると思う。今後、元の切り上げ幅は年間ベースで5%前後、2010年末までに累計20%前後にとどまるだろう。
要するに、米中「金融恐怖バランス」は暫く続く。しかし、将来的には崩れる可能性が高い。崩れた場合、米ドルの暴落など国際金融システムへの影響が甚大なものと見られ、日本を含む世界経済に与える打撃も避けられない。日本企業はどう対応するかを今から考えなければならない。