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【中国経済レポ-ト】
【中国経済レポ-ト】
講演抄録:中国経済の現状と見通し(上)
多摩大学教授 沈 才彬
(「エネルギー総合推進委員会会報」2010年3月月例会記録)
2010年3月17日、多摩大学教授沈才彬氏は、エネルギー総合推進委員会月例会にて「中国経済の現状と見通し」を題とする講演を行いました。南直哉委員長(東京電力株式会社顧問)、岡部敬一郎副委員長(コスモ石油株式会社会長)をはじめ約50名が出席しました。次は講演抄録です。
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多摩大学の沈でございます。本日、エネルギー総合推進委員会で、中国のことについてお話しするチャンスをいただきまして誠に光栄の至りと存じております。エネルギー総合推進委員会のメンバーには、南委員長はじめ、日本の経済界の顔である方々が沢山おられます。そうした皆様の前で中国について話をさせていただくことは非常に恐縮なことであり、かなり緊張しております。
●本日の論点:私の問題意識
今日は、「中国経済の現状と見通し」という演題をいただいております。私はまず、「中国経済について、どういう問題意識を持っているのか」ということに関して簡単にご説明したいと思います。
私は、中国経済に関して幾つかの問題意識を持っております。まず、その一つ目ですが、私が、永住する形で来日したのは1989年のことです。この89年といいますと、皆さんがすぐ思い出されるのは、天安門事件と、それからベルリンの壁崩壊だと思います。ベルリンの壁が崩壊して、昨年丁度20年目を迎えました。
この20年間に、旧ソ連、それから東ヨーロッパ諸国が、相次いで崩壊しました。にもかかわらず、同じ社会主義国である中国は、何故なかなか崩壊しないのでしょうか。実際には崩壊するどころか、逆に急ピッチな台頭を遂げているのです。その背景には一体何があったのでしょうか。これが一つ目の問題意識です。
二つ目。それは、「何故、中国は米国発金融危機から一番早く脱却して、景気回復を一番先に実現できたのか」、「その理由は何か」、ということです。
三つ目。「中国経済にとって、2010年はどういう展開になりそうなのか」ということです。つまり2010年の中国経済の見通しです。「現状を踏まえると、見通しはどうなるのか」ということです。
四つ目。結論からいえば、今年5月から、上海万博が開催されますが、私は上海万博終了までは、中国経済が挫折するというシナリオは考えにくいと思います。しかし、「上海万博終了以降、中国経済はどうなるのでしょうか」「中国経済が挫折するシナリオは本当にあるのでしょうか」、そして、「若し挫折があるとすれば、どういうタイミング、どういうきっかけで挫折するのでしょうか」ということです。
五つ目ですが、日本企業は今、戦略転換を迫られている訳ですが、「一体どういう戦略転換が日本企業にとっては必要なのか」ということです。
最後ですが、「今、何故、日本の外交戦略上、『親米睦中』戦略が必要なのか」ということです。
これらの問題につきまして、私の個人的な見方ではありますが、この場を借りまして、ご説明させていただきたいと思います。そして、皆様と問題意識を共有したいという気持ちを持って本日はこの席に参りました。
さて、問題別に話を進めたいと考えております。
●何故、中国はベルリンの壁崩壊後、崩壊せず、急ピッチで台頭したのか
まず一つ目の問題から話を進めたいと思います。ベルリン壁崩壊後、東ヨーロッパ・旧ソ連の国々は、相次いで崩壊したのですが、中国は何故なかなか崩壊しないのでしょうか。崩壊するどころか、寧ろこの20年間において、中国経済が急ピッチで台頭を遂げた理由は何なのでしょうか。
私が、永住する形で来日したのは、先ほど申し上げた通り1989年です。その翌年における中国の経済規模は、日本の僅か1/9、アメリカの1/15でしかなかったのです。
ところが、それから10年経った2000年時点になりますと、中国の経済規模は日本の1/4、アメリカの1/8になりました。更に2008年には、中国の経済規模は日本の何と9割弱、アメリカの1/3になりました。
そして昨年、中国の経済規模は遂に日本の96%となり、アメリカにもかなり接近したのです。若し、円高という為替のマジックが無ければ、昨年の時点で中国の経済規模は日本を上回った筈だったのです。ただ、今年は、中国の経済規模が、日本を上回り世界第2位になることは、ほぼ確実な情勢となっております。
これはマクロ的な話ですが、ミクロ的にも見てみましょう。例えば、自動車です。自動車の分野でも、中国は驚くほど急ピッチで発展しております。私が永住するために来日した89年の頃は、中国における車の台数は極めて少ないものでした。特に乗用車は、極めて稀な存在で、当時は高級幹部しか乗れない交通手段だったのです。乗れるのは局長以上のクラスだけであり、乗用車を持っているかどうか、これが当時の中国の人の身分の象徴でした。その人には権限があるかどうか、地位が高いかどうか、乗用車はそれを象徴的する存在だったのです。
統計上も、1990年時点での中国における新車販売台数は僅かに55万台だったことが示されております。ところが昨年になりますと、中国における新車販売台数は何と1364万台に達しました。僅か20年弱で、一躍アメリカを逆転して、世界最大の自動車消費大国になったのです。これは20年前には、誰も想像できなかった出来事です。
このように、20年前、30年前の時点では、中国がこのように急ピッチで台頭してくることは、誰も想像できなかったのです。中国自体でさえも想像もできなかったことなのです。
今、中国と日本の間、中国とアメリカの間、中国とヨーロッパの間では、様々な問題、様々な摩擦が起きています。その原因は色々とあるのですが、私から見れば、その最大の理由は、中国がこの様に急ピッチで台頭することについて、お互いに心の準備が出来ていなかったことだと思います。当の中国ですら心の準備ができていないのです。ですから、これから急ピッチで台頭する中国と如何に向き合うかは、日米欧を含む全世界の課題だと思います。
●中国経済の急成長と鄧小平氏の決断
そこで問題です。ベルリン壁崩壊後、旧ソ連、それから東ヨーロッパの国々は相次いで崩壊しました。ヨーロッパには現在、社会主義国は一つも存在しておりません。にもかかわらず、同じ社会主義国である中国は、何故なかなか崩壊しないのでしょうか。いや、実際は崩壊するどころか、先程ご説明したとおり、急ピッチで台頭を遂げております。その理由は何なのでしょうか。
実際、90年代に香港のある実業家が――親中派財閥です――当時の最高実力者であった鄧小平さんに、その質問をしました。
それに対する鄧小平さんの答えは極めて明解でした。彼の話によりますと、「実は私は、資本主義に学んで社会主義を良くした」という答えだったそうです。即ち、中国は資本主義の手法を導入して、硬直化した社会主義制度を是正、改善したのです。鄧小平さんの答えは、そういうことでした。
皆様もご存じの通り、1989年には天安門事件が起きました。それで西側諸国は中国に対して軍事制裁と経済制裁を発動するという、物凄く厳しい情勢だったのです。しかもその年の11月には、ベルリンの壁が崩壊したのです。旧ソ連、それから東ヨーロッパの国々が相次いで崩壊したのです。ですから中国にとって、その時は、やはり嘗て無い危機だったのです。「この危機をどう乗り切るか」は、中国にとって死活にかかわる最大の課題だったのです。
しかし、当時の中国の中央執行部においては、その対応に関して意見が割れていました。一部の人は、中国は社会主義の道、共産主義の道を堅持すべきだという意見でした。彼らは、共産主義教育を強化すべきだと主張しました。ですから、当時の北京は共産主義キャンペーン一色だったのです。
さらに、改革・開放を否定する動きも活発化していた。つまり中国の「改革・開放」は、社会主義の道を歩むものではなく資本主義の道を歩むものであり、中国は社会主義の道を堅持すべきだという見方です。「『改革・開放』は、中国にとってはあまりよろしくない」という意見もあったのです。これが、所謂左派の人たちの考え方です。左派の人たちというのは、マルクス主義の原理主義者です。そういう人たちが当時の中国の中央執行部には結構いたわけです。
周知の通り、改革・開放は、鄧小平さんが唱える政策であり、改革・開放を否定することは鄧小平さん本人まで否定することを意味するのです。それで鄧小平さんは、その有様に激怒し、彼は北京を脱出しました。それは1992年春のことでした。当時の北京は、共産主義の宣伝、キャンペーン一色でした。そうした中、鄧小平さんは北京を脱出して南へ向かったのです。
鄧小平さんは、先ず中国の真ん中に位置する武漢市に向いました。彼は、武漢市で、その地方の行政、党、軍隊のトップを集めて、「これから中国はどうすればいいのか」という問題に関する談話を発表したのです。
鄧小平さんの意見は、中国の進む道は「改革・開放」しかないというものでした。「中国は『改革・開放』をやるしかない。『改革・開放』をやらないと中国は死ぬしか道がない。『改革・開放』をやらない奴は、中央執行部に留まる資格は無いから辞めてもらいたい」というメッセージを発し、「この私のメッセージを北京に伝えて下さい」というものでした。そして鄧小平さんはそういう談話を発表して、更に南に向かったのです。行き先は広東省でした。
広東省は、皆様ご存じの通り、中国で「改革・開放」が一番進んでいたところです。中国には四つの経済特区がありましたが、そのうちの三つは広東省にありました。鄧小平さんは、広東省に着くとまた地元の党、行政、軍隊のトップを集め、同じような談話を発表したのです。つまり、「中国は『改革・開放』をしなければ死ぬしか道がない。だから『改革・開放』を堅持すべきだ」という内容でした。それでまた、「北京にそういう私のメッセージを伝えてください。『改革・開放』をやらない人は辞めてもらいたい」と言いました。
当時の中国の中央執行部は誰かといいますと、江沢民さんです。彼は、その話を聞いて、慌てて彼の側近を鄧小平さんのところに派遣したのです。それで鄧小平さんの武漢市の談話、それから広東省の談話など「南方談話」を纏めて中央文件の形で党内に送った訳です。そして「改革加速・開放拡大」という方針を決めたのです。
更に、鄧小平さんは、南方談話の時に大きなメッセージを送ったのです。どういうメッセージかと言いますと、「社会主義市場経済」の導入です。「社会主義市場経済」と言いますと、それに含まれる二つの概念は、当時の中国の常識では水と油のような存在でした。
つまり「社会主義=計画経済」で、これに対する概念が「資本主義=市場経済」である、と看做されておりました。すなわち、「社会主義市場経済」、これはとんでもない話だということです。「『社会主義市場経済』など非常識な発想だ」、これが一般的な中国人の受け止め方だったのです。ところが鄧小平さんはその常識を覆して、「社会主義市場経済」を導入すべきだとおっしゃったのです。
鄧小平さんの話は、次のような話でした。つまり、「『社会主義=計画経済』ではない。社会主義の国にも市場がある。一方、『資本主義=市場経済』ではない。資本主義の国にも計画はある」という話をしたのです。それで、鄧小平さんは、南方談話の中で「社会主義市場経済」の導入を提案した訳です。
それを受けて、その年の――1992年秋ですが――党の代表大会で「社会主義市場経済」の正式導入を決めました。これは党の決議であり、その年の秋から中国は「社会主義市場経済」を導入した訳です。当時、日本を含む西側諸国の論調は皆、「社会主義市場経済」に対して懐疑的な見方を持っておりました。つまり、「社会主義と市場経済は水と油のようなものであり、一緒にくっつけることで成功する筈が無い」と、皆そういう論調だったのです。
ところが実際には中国で、1992年から「社会主義市場経済」を導入してから、それが挫折したことは1回も無く、それ以降、年平均10%前後の高度成長が続いてきたのです。
ですから今、振り返ってみれば、もし鄧小平さんのその時の決断が無ければ、そして当時の中央執行部の方針のままで共産主義教育キャンペーンをずっとやり続けていたならば、多分今の中国は存在しなかったと思います。中国は多分、今の北朝鮮のような鎖国的な国になったか、或いは旧ソ連、東ヨーロッパの国々のように共産党政権が崩壊してしまうという、二つのシナリオの何れかを歩んだことでしょう。ところが鄧小平さんの所謂、非常識な発想、決断によって中国は救われた訳です。
ですから、「リーダーシップは何ですか」と言いますと、ここにおられる方々は、皆様リーダーの立場にある方々が多いのですが、リーダーシップは普段は要らないのです。これは皆様に怒られるかもしれませんが実際はそうなのです。
但し、組織が揺れている時、或いは国が揺れている時には、リーダーの決断、即ち、リーダーシップが必要なのです。右か左か分らない時、迷っている時、その時には、リーダーの決断、リーダーシップが必要なのです。若し鄧小平さんのリーダーシップが無ければ、今の中国は多分存在しないと思います。
●危機に直面する資本主義と社会主義的処方箋
話が戻りますが、社会主義の危機のとき資本主義の方法が有効だったこと、これは中国のこの20年間の歴史によって裏付けられたのです。つまり中国が直面した社会主義の危機の時には資本主義の方法が有効だったということです。
ところが今は、社会主義の危機ではないのです。米国発の金融危機とは、本質的には金融資本主義の危機なのです。マネーゲームに奔走する金融資本主義の危機です。
そうした局面では、逆に、社会主義的な手法が有効だと思います。現にオバマ政権や西ヨーロッパ諸国が採った金融危機対策を見ますと、主に二つの特徴があると思います。
その一つは、大規模な公共投資の実施であり、もう一つは、銀行への公的資金注入です。しかし、これらは何れも社会主義的な手法です。ですから、資本主義の危機の時には、逆に社会主義的な手法が有効であることは、今回の米国発金融危機によって裏付けられている訳です。要するに社会主義であろうと、資本主義であろうと、もし自浄能力が無ければ何れも危機的な状態に陥るということです。歴史に淘汰される恐れがあるのです。これが一つ目の問題です。
●中国は何故、米国発金融危機から一番早く脱却したのか
次の問題に入りたいと思います。
即ち、「中国は何故、米国発金融危機から一番早く脱却したのか」という問題です。皆さんご存じのとおり、昨年、日米欧の経済成長率は何れもマイナス成長でしたが中国は8.7%と非常に高い成長率をキープすることができました。中国において、米国発金融危機による影響が無い訳ではないのですが、中国ではその影響を最小限に抑えることができたと思います。その理由は何なのでしょうか。
これは私なりの説明ですが、その理由は次の三つだと思います。
まず一つ目は、中国経済の特質的な構造にあると思います。即ち、「中国経済は国内の政変に弱い、ところが外部危機には強い」という構造です。
まず、「国内の政変に弱いということはどういうことか」といいますと、実際、私が調べたところ、過去40年間、中国経済は挫折を5回経験しておりますが、それらはすべて、政変の年に起きております。これについては、例外は一つもありません。
●過去5回の経済挫折はすべて政変の年に起きた
この5回の挫折の1回目は、1967年に起き、その年の経済成長率は▲7.2%でした。1967年といいますと、皆様ご存じのとおり「文化大革命」の翌年です。すなわち、1966年に中国では文化大革命が起き、大混乱に陥ったのです。
「文化大革命の本質は何か」と言いますと、はっきり言って、これは権力闘争です。毛沢東さんが自分のライバルを倒すための権力闘争だったのです。そのライバルは誰かといいますと、国家主席であった劉少奇さんと、党総書記であった鄧小平さんでした。その2人は毛沢東さんのライバルだったのです。文化大革命は、その2人を失脚させるための権力闘争でした。
その結果、翌年、劉少奇さんが失脚して、それから鄧小平さんも失脚したのです。そして、その年の経済成長率は▲7.2%でした。それからその翌年、すなわち68年も▲6.5%と、2年連続のマイナス成長となりました。これが1回目の挫折です。
2回目の挫折は、1976年です。この年、鄧小平さんは3回目の失脚を経験したのです。そしてその年、毛沢東さんが亡くなられました。そしてその1ヵ月後に、中国ではクーデターが起きたのです。即ち、毛沢東さんの側近である文化大革命の推進者でもある「四人組」が逮捕されたのです。そして、その年の経済成長率は▲2.7%でした。これが2回目の挫折です。
それから3回目の挫折が、1981年です。この年には、中国の共産党のトップであった華国鋒さんが、鄧小平さんとの権力闘争に負けて失脚したのです。その年も中国の経済成長率は、大幅に下落したのです。
それから4回目の挫折ですが、1986年でした。この年には、中国共産党の総書記であった胡耀邦さんが、民主化運動で失脚したのです。その年も中国の経済成長率も大幅に下落したのです。
それから5回目の挫折、それは私が来日した1989年です。その年には天安門事件が起き、そして中国共産党総書記であった趙紫陽さんが失脚したのです。その年の経済成長率は一気に7ポイントも下落したのです。
ですから過去40年間において、中国経済の挫折は、すべて政変の年に起きたということです。これは中国の経済の特質的構造にやはり原因があると私は思います。
皆様は、「何故、中国経済は政変に弱いのか?」という疑問を持たれると思います。これは共産党一党支配の弱みでもあるのです。ご存じのとおり、中国は共産党一党支配の国です。共産党のトップあるいは主要幹部が失脚すれば、中央から地方まで大規模な幹部の異動が行われます。そうしたことで政治は混乱状態に陥り、そして経済も挫折するのです。これが中国のこれまでの経験則です。例外はありません。政変に弱いこと、これは中国経済の特質的な構造なのです。
●外部危機には強い中国経済
ところが、その一方で、中国経済は外部危機には意外に強いのです。これは次の三つの実例を交えて説明させていただきます。
まず一つ目の実例ですが、それは1997年のアジア通貨危機です。その翌年には、ASEAN諸国の経済成長率は▲8%となりました。日本、韓国、ロシア各国もマイナス成長に転落しました。ところが、中国の経済成長率は7.8%と高い水準でした。
それから二つ目の実例は、ロシア経済危機との関連です。ロシアでは、1990~98年まで10年近く毎年マイナス成長が続きました。ところがロシアの隣国である中国は全くその影響を受けず高度成長が続いたのです。
三つ目の実例は、アメリカにおけるITバブル崩壊です。ITバブルは2000年後半から弾けたのですが、実際影響が出たのは2001年になってからです。2001年において、アメリカの経済成長率は0%台、日本も0%台でした。更に、シンガポール、台湾はマイナス成長に転落しました。ところが中国の経済成長率は8.3%と、その前年とあまり変わらなかったのです。
皆様からは、「何故、中国経済は外部危機に強いのか」という質問が多分来ると思います。その理由は、先程の理由と同様、やはり共産党一党支配にある訳です。つまり中国は共産党一党支配であり、民主主義体制には未だなっていないのです。ですから中国は、民主主義のコストを払う必要が無く、政策転換が早く行われるのです。行動が早い、決断が早いのです。
実例を一つお示ししましょう。例のリーマン・ショックが起きたのは2008年9月15日です。その翌日、16日には、中国の金融当局は金利引き下げを断行したのです。金融政策を僅か1日で180度転換させたのです。
中国の金融政策は、リーマン・ショック前は、引締め政策でした。にもかかわらず、リーマン・ショック翌日の16日には、金利を引き下げ、それから銀行からの貸出し総量規制の撤廃等々、金融緩和政策に転換したのです。中国では僅か1日でそういう政策転換ができた訳です。しかも11月には、57兆円規模の大型景気刺激策が発表されたのです。中国では物凄く政策転換が早かった、決断も早かったのです。これはやはり民主主義の国家体制ではないので、民主主義のコストを払う必要が無いということであり、それこそが中国の強みです。
一方、日本は民主主義国家です。ここにおられる方々は昨年、ひとり1万2000円の国民定額給付金を貰われた筈です。それを貰うまで、どのぐらいの時間がかかったでしょうか――数カ月間です。法案が国会に提出されて、それで議論され、そして採択されたのです。ところが、中国ではそういう民主主義のコストを払わずに済む訳です。政策転換が早い、決断が早い、行動が早いのです。これがやはり中国経済の強みです。ですから、中国が米国発の金融危機から一番早く脱却した一つ目の理由は、まさに中国の特質的な経済構造にある訳です。
●中国には、海洋国家と大陸国家が併存している
二つ目の理由ですが、やはり中国は広大であり、「海洋国家」的な地域もあるし、「大陸国家」的な地域もあることが挙げられます。
「海洋国家」的地域とは沿海地域です。「大陸国家」的な地域とは内陸地域です。中国はその両方を持っているのです。これは強みです。日本は単純な「海洋国家」です。「海洋国家」は外部危機の時は弱いのです。なぜ弱いかといいますと、外需依存度が高いからなのです。これは、日本だけの話ではなく、イギリスもそうですし、韓国もシンガポールも台湾も香港も、広い意味での「海洋国家」です。そういう「海洋国家」は外部危機の際には脆弱です。これは、繰り返しになりますが、外需依存度が高いからなのです。
ところが中国には沿海地域もありますし、内陸地域もあるのです。内陸地域は基本的には内需依存度が高いのです。ですから外部危機の時は、内陸地域の強みが発揮される訳です。
具体的に、2009年における省、市、自治区別の経済成長率を比較してみますと、内陸地域平均は、沿海地域平均より約1ポイント高かったという事実がございます。つまり、外部危機に際しては、内陸地域において、その強みが発揮される訳です。これが二つ目の理由です。
三つ目の理由ですが、先程も少し触れましたが、中国は一番早く大型景気対策を打ち出しました。その効果が今、出始めているわけです。その三つの理由によって、中国は世界主要国の中で一番先に景気が回復した訳です。(つづく)